日本武術の歴史 02
武士の出現
8世紀から10世紀にかけて、貴族が日本全土を支配し、比較的に社会は安定していました。 この時期、各地の支配階級は、自分と家族の権益を守るために大勢の兵士「武士」を雇いました。 「武士」とは、武器を持って戦う兵士です。 「武士」はやがて「サムライ」と呼ばれるようになりました。 サムライとは「主人のために戦う武士」のことです。
しかし、「サムライ」の力はますます強くなっていきました。 特に国のトップである天皇がその力に頼ったことで「武士・サムライ」は貴族よりも大きな力を持つようになったのです。 その後、権力闘争の激化と共に貴族の力は衰え、内戦ののちに、武士の最高峰「将軍」によって鎌倉に軍事政権が樹立されました。
その後、「将軍」の地位は様々な人物の手に渡りましたが、武士の政権は600年以上続きました。日本は戦乱の時代と平穏な時代を繰り返すことになります。そして戦うための技術は進化を続けます。
武術は武士の戦いを支える技でした。 新しい技術は戦争の時代に生まれ、平和の時代に発展し普及したと考えられています。 弓術と馬術は武士が戦争で最も重視した武術でした。 これらの流派は現在も受け継がれています。 ただし、これらの 2 つはここではまだ説明していません。 まずは素手での格闘技と武器を使って戦う武術について見ていきましょう。
日本武道には多くの流派がありますが、まず注目したいのは、今日の相撲・柔道につながる素手の武術と、 日本刀や槍を使用する剣術や槍術です。
古代の力士は、突き、押し、投げだけでなく、突きや蹴りなどの打撃技も使用していました。 相撲は素手による真剣勝負で、イメージとしては現在の総合格闘技に近いものだったと考えられます。この相撲の技は、武士の戦闘で重宝されました。 武士は敵と武器で戦い、最後は敵と近接格闘し、投げ倒し、小刀「脇差」でとどめを刺します。 この敵を倒して動けなくする様々な技が洗練され、柔術の流派が生まれました。
古代にユーラシア大陸から伝来した金属製の武器は、日本で独自の形に進化しました。それら剣や槍などの武器を使用する技術も同じように研究されます。 やがてそれら武器術の「達人」と呼ばれる人物が現れ、剣術や槍術の流派が誕生したのです。
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